偽りの三審制~最高裁は、原則唯一の憲法の番人

最高裁の扉を開けることは、限り無く限定された条件が必要

日本は三審制だと、小学生の時に習った記憶があるが、実質的に同じ事件で3回の裁判が受けられるわけでは無い。最高裁は原則として、無いものと考えておくのが、およそ現実的ではないだろうか。

最高裁で審議してもらうこと、つまり上告が認められることは、かなり敷居の高いことだと認識しておくことが、およそ実態に近いのではないだろうか。

そんな背景から、最高裁で弁論、つまり法廷が開かれる時には、何かと各種メディアが取り上げる事が少なくない。

そこを何とかして、3回目の審理をさせようと、弁護士を始めとして、四苦八苦しているのが現状ではないだろうか。そのような状態なので、当然、ダメ元とでも言うのだろうか、明らかにこじつけで上告する人も居る。いや何も上告だけに限った事では無いのだろう、勝ち筋で無くとも訴訟をしたがる人は一定数は存在していて、そのような輩も最高裁の扉を叩いている。そのような輩の請求が棄却される事は当然の事ではあるが、実質的に深く審議すべき事件も、そんな中に紛れてしまい。さらに最高裁の扉は固く閉ざされてしまっていると感じている。

原則として、最高裁は、法律審を謳い、重要な法律違反の判決のみを審理の対象としている。いや、もっと言えば、表向きは、憲法に関わる事件のみを扱うと謳っている。

また、俗に言われる判例とは最高裁の判決を差している事は周知の事だろう。

そんな最高裁の扉を開ける方法は大きく2つと言われていて、上告と上告受理申立に分けられるようだ。この2つの区別が明確に区別できている一般人は、そう多く無いだろうと考えている。正直言って、この辺りのシステムは、今ひとつ理解できてない。代理人である弁護士様々の状態だ。

実際の運用として、そうそう憲法に違反するような事件ばかりのはずもなく、何とかして憲法に紐付けして、上告受理事件にしようとされているのだろう。

当サイトで、他の記事で触れてきた内容は、上告受理申立に関わるもので、いわゆる、上告、つまり憲法に直接紐付けされたものでは無い。

本事件においても、多少強引になるが、憲法に照らして考えてみる。

憲法の中には、直接に権利を記したものもあり、その代表的なものが基本的人権であり、、基本的人権の内容として○○権等が叫ばれていると理解している。その他のものとして、参政権や団結権および財産権等となる。

また、憲法が直接に法律を要請しているものとして、皇室典範、日本国民たる要件、教育を受ける権利、納税の義務等があり、労働の条件も憲法が直接法を要請している1つとなる。

労働法の根源は、憲法第27条2項の要請による

憲法の中で、労働事件を直接に臭わせるも条文は、27条2項くらいだろう。

憲法第二十七条  すべて国民は、勤労の権利を有し、義務を負ふ。
○2  賃金、就業時間、休息その他の勤労条件に関する基準は、法律でこれを定める。
○3  児童は、これを酷使してはならない。

この第27条2項が直接関係してくる事に異論は無いだろう。この内容を満たす労働基準法が憲法と直接結びつく事になる。

労基法は昭和22年4月に公布されているとの事なので、憲法施行日の同年5月に合わせて間に合わせた法だろうと考える。つまり現憲法と切っても切れない、憲法を具現化する為に必要不可欠な法と考えられるのだろう。

少し古くなるが前述の趣旨からすれば、その立法論は今も大きくは変わらず、多少は時代の変遷と共に改正され、労契法や、労働者派遣法等の周辺法が整備されて来ている事になる。1986年頃に発表されただろう、矢邊學氏の「労働基準法立法論的検討」によると、

憲法25条の生存権をその内容とすることはいうまでもないが、しかし、生存理念権は、その根源において、「人間の尊厳」に由来するものである。それ故に、労働条件が労働者のにんげんとしての生活にふさわしいものを要請する法的根拠は憲法13条で保証する「人間の尊厳性を基本理念とすべきであろう「人間の尊厳性」なるものは、「人間の自由な活動範囲を通して、その人格の自由なる発展の中においてはじめて維持高揚さられ得べきものである。」あるといえるのである。

つまり、憲法25条や同13条等と密接に関係しており、上告理由として関係づけようとすれば出来なくは無いと考えて良いのかもしれない。

憲法第二十五条  すべて国民は、健康で文化的な最低限度の生活を営む権利を有する。
○2  国は、すべての生活部面について、社会福祉、社会保障及び公衆衛生の向上及び増進に努めなければならない。

憲法第十三条  すべて国民は、個人として尊重される。生命、自由及び幸福追求に対する国民の権利については、公共の福祉に反しない限り、立法その他の国政の上で、最大の尊重を必要とする。

自然に任せると、労働者は使用者から奴隷のごとく扱われかねない事から、弱者である労働者を保護しようと定められた法である事が通説だとの事に異論は無いだろう。憲法25条においても、労基法1条2項においても「最低限」だと明示されている。また、それゆえに労基法が強行法規と言われ、刑罰規定があるのだろう。

逆に考えると、刑罰規定の理念からは「疑わしきは罰せず」なんて事も言われるが、民事事件に関しては、弱者保護、労働者保護が優先されるべきでは無かろうかと考える。

雇用契約は双務契約、片方当事者だけでは成立しない。

話を本事件に戻そう。控訴人が労働者だと認定した、大坂控訴審判決だが、その相手方が特定せずに締めている。「被控訴人との間で雇用契約は成立していない。」と口を濁す。他の記事で述べたが、控訴人と被控訴人との関係のみであれば、それでも許されるとも考えられなくもない。

しかし、相手方の特定されない双務契約という不安定な状態にも関わらず、双務契約である雇用契約の一方当事者だけを、その法律関係と認める事に消化不良に似た感触を残している。相手があって初めて成立する、双務契約にも関わらず、相手方が不明なまま、一方当事者だけが契約関係にあるとするのは、やっぱり納得出来ない。

こう書いてくると、労働者性を認めた控訴審判決の有り難い部分をも否定する事に成りかねない。控訴審判決が、あくまでも真正の順次請負関係だと誇示する事が間違いであり、二重派遣、つまりは違法な労働者派遣との視点から見る事で、全てが納得の出来る説明がつくのでは無いのではないのだろうか。