外形上の使用者を装う事を回避しなかった事に過失がある!

外見上労働者派遣と認識する事に過失は無い

繰り返し述べてますが、本事件は、違法な労働者派遣事業だ。その論理を行政も採用した。いや、そうじゃなければ行政は認容しなかったとも思っている。行政を論破してきた事が安易だったとは言えないが、違法な労働者派遣との論理だからこそ突破できたとも考えている。

また、数人の弁護士に相談した結果も概ね同様の所見であった、つまり違法な労働者派遣だと見立てていたのだ。中には労働者派遣が何たるものかすら理解していない弁護士も居たが、そんな輩が「労働問題なら任せろ」のように標榜している業界にも違和感が生じている。が、それはそれで別の問題なので多くを語らない事にしよう。

行政に関しては、管轄の行政庁への訪問を一番後回しにした。本丸の管轄行政庁で門前払いをされてしまう事を恐れていた。現実問題、他の行政庁をいくつか訪問すると、窓口レベルでは口を濁されてしまう事が多く、せめて係長クラス、いや課長クラスを呼び出さないと、お話しにならなかったもんだ。

少しでも行政手続きの経験の有る方ならお解り頂けると思うのだが、窓口の人物の当たり外れは、かなり大きいもので、窓口で良い人に当たれば、窓口レベルで対応できない案件か否かを素早く察してくれて、直上の者に取り次いでくれる。その為には、こちらも筋の通った話をしなければならない。

弁護士に関しては、ほとんどが個人事業者なので外れた時は、そそくさと次を探す事が最善の策では無いだろうか。

いずれにしても、自身が何を求めてるのか、求めているものは法律の根拠に有るものなのか否か、そんな部分を意識しなければならない。行政にしろ、弁護士にしろ、話のとっかかりは曖昧なものだとしても、最終的には法律行為及び法的効果を期待する事に変わりは無い。

少なくとも、裁判所においては、前置き無しに法律論から、法律論だけを重視すれば良いなんて考えていた事に失笑するしかできない。

そのような経緯から、労働者である事を確信し、被控訴人に対して提訴した事に過失は無い。仮に被控訴人が、控訴審判決の言うとおり使用者では無いとしても外形上、使用者と認識する事に責められる理由が有るのだろうか。

いや無い。無いだろう。

本来の使用者に求償権を負う事で調整できないのか。

そうすると、仮に高度な法律論として、厳格に法規に照らして、被控訴人が使用者で無いとしたとしても、その外形上の使用者を本来の使用者と誤認したとしても、そのような紛らわしい外形を装った事が責められるべきではないのだろうか。さも無ければ労働者保護なんてものは実現しない。

つまり、被控訴人が使用者で無いとしても、外形上の使用者を装う事を回避しなかった事に過失があり、使用者責任を負うべきではないのだろうか。もちろん本来の使用者で無いのならば、本来の使用者に対して求償権を得る事になるのだろう、つまり被控訴人は訴外Aや訴外Bに対して請求権を持ち得るとするのが労働者保護と言えるのでは無いだろうか。

訴外Bらとの間での内部関係は、控訴人には何ら関係無く、知る事も出来ないのである。控訴人は被控訴人を含む訴外Bらとの契約関係に関しては全く善意の第三者でしか無い。

行政の判断を司法が排斥する事は問題の無い行為だと考えている。それこそが三権分立のあるべき姿だと考えている。しかし行政の判断を排斥する為には、それ相応の手続きが必用で、法体系としても行政不服手続きや行政訴訟などが整備されているのだ。

被控訴人は、雇用保険と社会保険・厚生年金に関しては審査請求及び再審査請求を行い棄却されている。しかし労働局需給調整事業の指導に関しては何ら異議を唱えていない。訴外Bや訴外Aも需給調整事業の指導に対して、あっさりと受け入れ対処している。

少なくとも需給調整事業の指導、つまりは二重派遣であり、職業供給事業だとの判断を認めているのだ。司法の場において、当事者である訴外Bらが認容している事実を否定する事が出来るとは思いもしてなかった。

ちなみに、雇用保険に関しては既に出訴期間を過ぎているので行政訴訟は為されないようだ。社会保険と厚生年金に関しては、この月末に出訴期間の締め切りを迎える。(平成29年8月29日時点では提訴されていない)

どういう事なのか。被控訴人は本事件では使用者で無いと主張するものの、他方、各行政庁に対しては使用者だと結果的に認めている事になる。

労基法は強行法規であり、労働者は保護されるべき。

労基法が強行法規だとの認識に異論を唱える人は居ないだろうと考える。しかし、どこまで強行して介入できるのかという点においては、事案毎に様々な判断がされている事もまた認めざるを得ない現実だ。

しかし労働者であるならば、最低限保護される事項を定めた法が強行法規としての労働基準法ではないのだろうか。この事は、各労働諸法令の根幹となるだろう労働基準法の初っ端と第13条明示されている。

労基法(労働条件の原則)
第一条  労働条件は、労働者が人たるに値する生活を営むための必要を充たすべきものでなければならない。
○2  この法律で定める労働条件の基準は最低のものであるから、労働関係の当事者は、この基準を理由として労働条件を低下させてはならないことはもとより、その向上を図るように努めなければならない。

労基法(この法律違反の契約)
第十三条 この法律で定める基準に達しない労働条件を定める労働契約は、その部分については無効とする。この場合において、無効となつた部分は、この法律で定める基準による。

また本事件で大きな争点となっている労働者及び使用者の定義はその間にある。

労基法(定義)
第九条  この法律で「労働者」とは、職業の種類を問わず、事業又は事務所(以下「事業」という。)に使用される者で、賃金を支払われる者をいう。

第十条  この法律で使用者とは、事業主又は事業の経営担当者その他その事業の労働者に関する事項について、事業主のために行為をするすべての者をいう。

第十一条  この法律で賃金とは、賃金、給料、手当、賞与その他名称の如何を問わず、労働の対償として使用者が労働者に支払うすべてのものをいう。

ひとまず、第九条の「労働者」だと控訴審は認定した。しかし第十条の「使用者」を曖昧にしている。第十一条によると、労働者が、その労務の対価として受け取る金員は名称の如何を問わず賃金では無いのか。そして賃金を給付するものが「使用者」では無いのか。

控訴審判決では、違う論理を立ててきているが、控訴人が労働の対象として、労務の対価として支払われていた金員を賃金だと信じ、賃金を支払うものが使用者だと信ずる事の、どこに間違いがあると言うのだろう。

繰り返しになるが、労働者保護の観点からは、その表面上の使用者にとりあえずの責任を追及する事の、どこの瑕疵・過失があると言うのか。少なくとも強行法規であり、保護されるべきとの観点からはかけ離れた結論を導きだしている。